本町5丁目

実績紹介

新三野屋商店

文美堂書店

現ご当主の曽祖父に当たる方は榊原藩の士族でした。藩主の国替えに同伴して姫路から来越されてこの地に根付かれ、謡曲の師範として活躍されました。金谷山に石碑も残っているそうです。

明治に入って息子の滝野信治がお馬出しの通りで小間物卸し業を創業されました。早くもバテンレースに着目され東京・横浜へ広く売り出されたそうです。

信治の息子は、祖父の血を受けられたのか、また謡曲の師範となり、昭和の初め頃百冊以上の謡曲の本を揃えて書店を開業されました。

「文美堂書店に謡曲の教則本で無いものは無い」と言われたほどで、謡曲を習う人にとっては無くてはならない存在でした。近郊近在どころか、かなり遠方からも買い求めに来られたそうです。

ラ・モード オータニ

大谷家のルーツは榊原藩士。姫路より殿様と一緒に来越され、この地に根を下ろされました。
「馬まわりの役」という下っぱの下級武士ですけどね。と言いながらも「殿様からお誉めいただいたことがあるんですよ」と奥様は誇らしげに話されます。
「弓が得意でね。殿様から特別の家紋を授かったのです。うちの家紋は元は橋の葉を2つ並べただけのシンプルなものだったのですけど、その上に矢羽の葉の部分を乗せた家紋を使うことを特別に許されたのです。」

商店街の近代化事業で店を建て替えた時、昔のものは全部処分してしまったので、お宝と言えるものは何も残っていないそうです。それだけに、この家紋に対する思いには強いものを感じました。

絵看板にも家紋を入れていただきました。創業は明治元年!直前まで武家の暮らしをしていて、思い切りよく方向転換をされた潔さに感服です。

大原スポーツ

創業当時は大原器械店として、電気製品、蓄音機、体育器具、体育遊具など様々な商品を扱っておられました。スキーの製造販売も始められましたが、かなりの高級品を扱っておられたようです。「品質本位・高級スキー」の文字が入った当時の新聞広告も残っています。

大正十年の全国スキー競技会の折にお越しになられた朝香宮 鳩彦王殿下がご乗用になったスキーが大原スポーツのお宝として残っています。

このお話をお聞きしたとき、大原さんの看板は本物のスキーをそのまま板に貼り付けたものにしようと思いました。大原さんに残る古いスキーを頂戴しようと思っていたところ、絵看板製作者の鈴木さん宅に同年代、同タイプの子供用スキーが見つかったというのです。そのまま板に取り付けて、雪国高田らしいとても素敵なスキーの絵看板が出来上がりました。

上越紺太

紺太さんは明治の初めに柏崎で創業されました。紺屋として創業されましたが、呉服や衣料全般を扱うようになり、寝具・インテリアへと業態を広げてこられました。

最盛期は、4階建ての総合衣料品店となり、4階には100席の大食堂があったそうです。現在は、高田を本拠地として、オーダーメイド枕を提供するなど「ふとんと眠りの専門店」として、広くご商売をされています。

店名の紺太は、創業者の紺屋 中村太蔵の「紺」と「太」を取って「紺太」となりました。当初は太蔵を襲名することになっていたそうです。

大杉屋惣兵衛 本店

新潟県内の和菓子屋の中で一番歴史のある老舗。本家は春日村(現在の土橋)、謙信公の春日城下にありました。昔は街道筋の「大あめや」といわれ、創業当時から米と麦芽から作った純粋の「米飴」を製造販売。謙信公ゆかりの羊羹「第一義」「春日山」は故・岸朝子さんのお墨付きです。

今は亡き先代の当主 宮越光昭さんは、戦後の高田の文化を牽引してきた文化人仲間のお一人。往年の銀幕スターを彷彿させるような笑顔の素敵な方でした。

晩年は「飴屋今昔」や「このまちで出会った人びと」など、来し方に思いを巡らせ、執筆活動を楽しんでおられたそうです。

店内奥には当時お付き合いのあった先代 斎藤陶斎さんの陶芸品や濱谷浩さんの代表作の1つ「鳥追い」などが常時展示されています。

クラフトハウスかわかみ

創業当時は糸紐専門に取り扱う糸商でした。店内には昔の糸巻きが展示されています。

昭和初期に仲町から現在の本町5丁目に移転、新築されましたが、当時の店舗は直径1mはあろうかという大きな梁と明かり取りの為の天窓がついた雪国特有の立派な木造建築だったそうです。

店主であるご主人の趣味は大工仕事、奥様と大女将はお二人とも針仕事が得意。まさにクラフトファミリーですね。クラフトで困ったことがあったら何でもご相談下さい。かゆいところに手が届く。懇切丁寧な指導をして下さることでしょう。

肉のいろは

肉のいろは・高山家のルーツは、米沢藩・上杉家の家老 千坂兵部の家来でした。武士の時代が終わって商いを始めるとき、千坂兵部から「我が名のとおり千の坂を乗り越え高い山を目指せ!」と3人の家来に高山の名字を授かったそうです。そのうちの一人が牛肉を扱う商いを始めた肉のいろはの初代社長 高山千次郎でした。

千次郎は人望も厚く、市会議長まで務められました。店内に胸像が飾られています。

陸軍十三師団が入城し、軍隊華やかなりし頃は、本町2丁目で牛鍋屋を始め、店内の豪華な大理石の風呂が人気を呼び、軍人さんたちにとって心身共に癒やされる憩いの場であったようです。

「将校さんが馬に乗って牛鍋を食べに来た」と先代の大女将がよく言っておられたそうです。

絵看板の図柄は、当時うしの日にリヤカーで牛肉を売り歩いた様子を表しています。実際はリヤカーに大きな氷を乗せ、むしろを敷いてその上に牛肉の塊を乗せて切り売りをしたそうです。

栄喜堂

お店の前を通るとあやしく光る「夜光パン」の看板。「夜光パン」?え?なに? このミステリアスな名前に惹かれてついつい店内に足を踏み入れてしまいます。なんと最近は県外のみならず、海外からも夜光パンの注文があるそうです。

でも栄喜堂さんの専門は手焼きせんべい、炭火で丁寧に焼いたせんべいは、大好評で、バイクに一斗缶を乗せて、広域に販売をされてました。卸売りもあり、最盛期は、3~4人の職人さんが焼いても焼いても間に合わないくらいの人気店でした。

現在は店主ご夫妻と跡継ぎの息子さん、この跡継ぎの趣味がハンパじゃない。店内に飾られている数々の骨董品・・・お若いのに渋い!と思いきや、大量に育てている金魚?いえいえアウトドアだって、エッ?スーツでスキー?船舶免許に釣り??・・・幅広いですね。商店街の未来は明るい!何だか嬉しくなります。